ひとりじゃない

京都教会に来る途中、荒神橋を渡るときには、いつもどきどきする。このどきどきは、京都教会を最初に訪れたときからつづいている。はじめて来た主日礼拝の説教で、「神様、これはあんまりだ!」とさけんだ牧師に出会ってしまったからだ。それ以来、どきどきする。その日、神様のお話を聴いて、心の汚れを洗い清めてもらおうかと思いたって教会を訪れた私に、牧師はいきなり、「神様、何でだ!」とさけんだのだ。びっくりした。何てことを言う牧師だろうと思った。

説教には、はりつめた緊張感があった。先日の豪雨で、鴨川が増水し、河川敷いっぱいに濁流があふれた。水がひいたあと、牧師は、当座の支援物資をもって鴨川ぞいを歩いたと言う。河川敷で生活するホームレスの方々にとっては、増水は生命の危機だったからだ。橋の下のテントや寝場所は完全に流されてしまっていた。みな無事だろうか。濁流がせまるなかでかろうじて持ちだすことができた物はどのくらいだったのだろう。ふたたび橋の下での生活を取りもどすために、どのくらいの時間と労力と気力がいるだろう。そのあいだ、働きに出る時間も、それどころか暮らす場所もないのだ。

何もないところをほうきではいている女性がいた。ある橋の下で暮らすホームレスの方だった。それは、暮らしていた場所からすべてを流しさった怒とうが引いたあと、何もなくなってしまった場所をただただはきつづける無言の姿だった。牧師は、大丈夫でしたかと言葉をかけたが、返事はない。生活に必要なテントも毛布も衣類も、身のまわりのものすべてが流されてしまったのだ。そのとき彼女の目には、牧師の姿も、ほかの何も見えていなかった。ただ、薄暗い橋の下で、何もないところを無言ではいている。言葉をうしなった牧師は、「神様!」と、心の中でさけんだと言う。
「神様、こんなところに、どう関われと言うのだ。この仕打ちに、どうやって言葉をかけろというのだ。これはあんまりだ。神様、あんたが行けと言うから来たんだ。それなのに、何もできない!」

礼拝堂で牧師はそのときの心のさけびをそのまま言葉にした。出席者はみんな、息をのんだ。私も息をつめた。私たちはなぜ、ホームレス支援をするのか。主が来なさいと呼ばれるから行くのだ、と牧師はおっしゃる。それが、教会の支援だ。しかし、行けと言われて行った現場は、神不在の絶望しかなかった。放心と沈黙しかなかった。
こんな現場で、何ができるというのか。私たちには何もできない。支援者にも、当人にも、だれにも、何もできない。ホームレス支援に取り組むなかで痛感させられるのは、目の前のその人がこの世界でもっとも孤立無援のときに、私たちに何ができるのか、何もできない!ということだ。それでも、主は、ここに来なさいと呼ばれる、あまりに酷だ、と牧師は言った。何もできないことが苦しくて仕方がない。ただほうきではくばかりのその姿に、どうしてだ、何でだ、とさけぶしかない。

みんながどきどきしていたその礼拝堂で、牧師は、それでも、関わるしかない、とおっしゃった。そこではだれにも何もできない。それでも、そこに主がおられるのだ、主が関わっておられる、主が来なさいと呼ばれる、だから私たちは行く、とおっしゃった。神にまで見捨てられたとしか思われない孤立無援のところに、十字架の主がおられる。

そんな説教を聞いてしまって、それまでの罪だの悩みだのをきれいに洗い清めてくれるような教会はないかなあと思って京都教会を訪れた私は、みぞおちがぎゅうっと締めつけられるような、息苦しい思いがした。ほうきを手にしたその女性とそのときかたわらに立った牧師の恐ろしいほどの絶望が感じられたし、それでもそこに十字架が立っているという牧師の言葉どおり、そこに十字架がある、あらねばならないと思った。

それから、私はどきどきしながら、荒神橋を渡って、京都教会にかよいだした。これまで、人との関わりをなるべく捨てて、観念の世界、抽象の世界で生きてきた。「他の人と一緒にいるから安心できるというのは、おかしなことだ」とパスカルは書いている。「彼らだって、助けてくれはしない。死ぬときはひとりなのだ。だから人はそのように生きなければならない。」これが真実だと思っていた。自分の人生を生きるのは自分しかいない。自分の死を死ぬのも自分だけだ。だれも代わってくれはしない。それを肝に銘じて、ひたすらに孤独な生活(それを私の仕事仲間は研究生活と呼ぶのだけれど)を送ってきた。信仰も、この孤独のなかにあるのだと思っていた。あの牧師、大谷先生と、彼がはじめてかいま見せてくれたあの十字架に出会うまでは。

なんて人だろう。この人たちは、人はひとりで生きているわけではないということを、あれほどの孤立無援のなかで示そうとしている。苦しくて悲しくて、神様、何でだ!とさけんでも、さけびながら祈りながら関わる。そんなにしんどいのなら、やめればいいのにとすら思った。この人たちは、いったい、何をしようとしているのだろう。こんな生き方が真実なのだろうか。アホじゃないか。「アホですよ」と大谷先生は、ぶしつけな質問ににこやかに答えた。かしこくふるまって、この社会でうまくやっていこうという人から見れば、こんなアホなことはないと言うのだ。この社会で孤立無援のところに立たされている人がそばにいて、主がそこにいて、来なさいと呼ばれるのだから、アホになって関わるだけだと、体をぼろぼろにしながら大谷先生は笑った。心打たれる思いで、僕でも手伝えるだろうかとおずおずたずねると、にっこり笑って、うれしいですね、ぜひ、なんて言う。ここのカレーは、本当においしいんですよ、と目をほそめて、ぜひ一度、味わってみてくださいと言う。

それ以来、どきどきしながら、できる範囲でお手伝いに来ている。これまでずっと人との関わりを嫌悪してきた人間にとって、何もかもがはじめてづくしだ。はじめて炊き出し準備をしているところに入っていったとき、来てくれてうれしいよと言って肩をたたいてくれた人の手の感じがいつまでも残っている。いやあ、村田さん、来てくれましたか、と大谷先生が笑う。子どもたちがあいさつ代わりにキックしてくる。こんな風に人と関わる生き方が自分にできるのかと、とまどっている。カレーは、本当においしい。われらの日用の糧を今日もお与えくださいという祈りが、はじめてずっしりとした重みをもってせまってくる。「われらの今日のパン」なんだということ。共に分かちあうパン、今日いちにちを生きるためのパンなんだということ。それをお与えくださいという祈りが、どれほど真剣なものだったのかということ。そして共に分かちあうことのできる喜び。その日来ていない人を心配して、そこに祈りが生まれる。出かけていって、無事を確かめて喜び、不在を心配して待ち、病気だったりしたら薬を渡しながら、こんなことしかできないのかと思う。ときどき、仲間と肩をたた
きあう。このどきどきする感じの中で、新しい生活が始まっている。

「人は結局ひとりぼっちだと思いますか。」

今の私の答えは、たしかに、パスカルの言葉ばかりを信じていたころとはちがってきている。

ホームレス支援のためのアンケートで、炊き出しに訪れる方たちに同じその質問をしている。職についていたころの圧倒的な孤独、孤立と、ホームレスの生活をはじめてから出会った仲間たちとの深い関わりが、アンケートをしながら言葉をかわすうちに、どの人からも感じられる。「食うために、うまく生きていくために、仲間を裏切ったり卑怯なことをしたりするのは仕方がないと思いますか」という質問には、だれもが、「いや、それをしたら人間おしまいだ」と即座に答える。そんな方たちばかりなのだ。

ところが、「結局ひとりぼっちだと思いますか」という質問には、その方たちが、みな、一瞬考えこんで、それからため息をつくような声で、「そうだ」と答える。多くの方が、この世界で、結局人間なんてひとりで生きているんだ、とおっしゃる。そして、自分などだれからも必要とされていないのだ、と。アンケートを取りはじめたときは、この質問をするのがいやだった。そうじゃないだろう、あんたひとりじゃないだろう、と思わず強い声で言ってしまいそうになる。でも、そんな言葉をかけることなんて、できない。この世界で、本当に小さくされ孤独にされた方たちが、きっと、その身にひしひしと感じていることなのだ。だれもが自分のことを知らないと言い、お前など必要ないと言うような世界に生きて、自分はひとりなのだと、結局ひとりなのだと、実感させられている方たちの言葉なのだ。

私たちは、あの日の、橋の下に立ちつくした牧師のように、沈黙するしかないのか。

あなたはひとりじゃない、とその方たちに強い声で言えるために、そして、その方たちご自身が、ひとりじゃない、と強い声で言えるために、アンケートのなかのこの項目の答えが変わっていくために、どれだけのことが必要なのだろう。ただ待ち望むだけではない。主は、行きなさい、と言われた。体も心もぼろぼろにして「あんまりだ!」とさけびながら、それでも行こうとする人たちがいる。沈黙するしかないように思える孤立無援の現場へ! そして、そこに出会いが生まれている。だれにも、何もできないように思えるその絶望と困窮の現場に、交わりが開けていくのを実際に見させてもらっている。

わたしたちがこの世界のなかで孤立無援のまま立ちつくしている、まさにその場所に、主が、わたしたちと共におられる。そして、そこから全世界に、来なさいと呼びつづけておられるのだ。主が、孤立無援のあなたのところに、全世界を呼び寄せられる。あなたのところに呼ばれ招かれたみんなが、あなたと共に生き、あなたと共に寄り添いあって、互いに肩をたたきあう。あなたは、ひとりじゃない。

村田康常

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