イエスが招いて下さる食卓

聖書の言葉

イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしたおられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げていわれた。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男の所に行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

 

今までの活動を振り返ってみたとき、この聖書の言葉が頭に浮かんだ。徴税人ザアカイは、町の人々からのけ者にされてずっと寂しかった。税金の不正な取り立ては罪であるとわかっていても、そうするよりほかに生きていく方法が見つからなかったのだろうと思う。不正な取り立てにより私腹をこやし、お金持ちであったし、また、徴税人として威張っていたかも知れない。でも本当は、愛し愛される人間関係に飢えていた。ザアカイ自身もそのことに気付けずにいたかもしれない。そんなザアカイにイエスの方から声をかけ、招いて下さった。「今日はぜひあなたの家に泊まりたい。」

 

ザアカイは精一杯のもてなしをしたに違いない。イエスとともに食卓を囲み、食事の交わりを持ったザアカイは自ら罪を告白し悔い改める。そしてイエスは言われる。
「今日救いがこの家を訪れた。」「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」ザアカイが失っていたもの-愛することと愛されること-はイエスから無条件に注がれた愛によって回復されたのだと思う。イエスから愛されたザアカイは、町の人々、特に弱く貧しい人々を愛する者へと変えられる。イエスが招き、整えて下さる食卓はそういう食卓なのだ。

 

私たち京都寄り添いネットの炊き出しも、そんな食卓でありたい。炊き出しを始めた当初から、「私たちはいつも食卓に着いて食事を頂くのだから、ホームレスのみなさんにも同じように召し上がって頂きたい」との思いから、教会の日曜日の昼食と同じように、集会室で食事を提供してきた。大きな鍋で作ったカレーを、大きな釜で炊いたご飯を、百数十名の仲間で分かち合って食べる。言うまでもなく、ボランティアの仲間も同じものを分かち合う。狭い集会室、席に着けば隣にも目の前にも仲間が食事を共にする。初めて出会う人もいる。きっと、そこにはイエスが共におられ、無言のうちにも食事の交わりを起こして下さっていると信じたい。

 

以前、炊き出しに来ておられたOさんは、足に大きな持病があった。手術をしても完治する可能性は低く、諦めていた。しかし、やがて彼は炊き出しだけでなく、日曜日の礼拝にも出席するようになった。そして、ある日「足のことも、仕事のことも諦めていたが、手術を受けてもう一度頑張ってみようと思う」とおっしゃった。手術を受けその後の厳しいリハビリも頑張った。運良くケースワーカーの方が付いて下さり、退院後はアパートに入り生活保護を受けて生活できるようになった。彼のアパートから教会までは、バスを乗り継ぎ一時間くらいかかる。それでも彼は、痛い足をかばいながら礼拝や祈祷会に出席していた。昼の祈祷会の日にはみんなで昼食を持ち寄って頂いているのだが、以前中華料理店の調理師をしていたOさんは惜しみなくごちそうを持って集って来られた。Oさんは、イエスの食卓によって、愛し愛されて生きていくことへの情熱を回復したのだと思う。

 

炊き出しに集うひとのなかには、いろいろな人がいる。心を開くことができなきなくなっていて威張り散らしたり、嘘をついたり、過去の栄光で身を固めていたり・・・
そのすべての人に向かって、イエスは招きつづけておられる。威張ることも、嘘をつくことも、誰かと比べることも必要ない。ボランティアをしているなんて誇る必要もない。みんな、ただ同じようにイエスの食卓に招かれ、その交わりにともに与るだけでいいのだ。そこで、失われたものを捜して、本来の姿へ立ち帰る。私たちの炊き出しは、そんな食卓でありたい。

大谷若菜

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