『共に生きる』ということ

私が、直接ホームレスの方々とかかわりを持ったのは、十代の頃でした。事情で家族と同居できなくなり、日本最大の寄せ場である大阪西成区の通称「釜ヶ崎」に身を寄せたのがきっかけです。
私はそこで人間のもつありとあらゆる醜い姿を、嫌というほど見せつけられました。酒に麻薬、喧嘩、エサ(食事)や寝る場所の取り合い、まだ十歳にもならない少女に売春をさせて、その日暮らしのあぶく銭をせしめる親。ひたすら貪欲に、執ように生きる姿を見て、いったい何のために、なんでここまでして人間は生きなければならないのか、生き続ける意味はどこにあるのか、答えを出せずにいました。生と死とが隣り合わせにある生活のなかで、いとも簡単に次々と社会に殺され、死んでいく人々の死を目の前にして、当時の私はこう確信していました。この世には神も仏もいない、いるはずがない、いたらこんなむごいことがあるはずがない、と。このような思いを私と同じように十代のころに体験された方がおられます。北九州市でホームレス支援をしておられる奥田知志牧師です。しかし、奥田牧師と私とでは決定的な違いがあります。それは、私がこの世に絶望し、悲観し、闇の力に挫折屈服したのに対し、奥田師は絶望の暗闇のどん底から希望を探し求め、大いなる力によって光の存在を信じ得られたという違いです。苦悩に直面した時、闇の中に留まり、うずくまって生きるか、光を求め立ちあがり一歩を踏み出すか、どちらかひとつです。
「求めよ、さらば与えられん。」
「光は闇の中に輝いている。そして闇はこれに勝たなかった。」
「夕べがあり、朝があった。」
奥田師は、「神はどこにいるんだ」と苦しみもがく人に、「一緒に探しましょう」と手を差し伸べられます。「一緒に」!これが支援の基本だと思います。どちらかが一方的にしてやる、してもらうではなく、互いに支え合い寄り添い合うこと。これが寄り添いネットのモットーであり、代表の大谷心基牧師が常に言われる「共に生きる」ことの重要性でもあります。
私たちの住む社会は差別社会であり、私を含め、すべての人が差別意識を植え付けられて生きています。近年、まだまだとは言え、過去に比較すると、障害者、病者、性差別問題などに進展は見られ、地域で数多くのボランティア団体が活躍されています。ところが、ホームレス支援となると、いまひとつ進展が遅いように思われます。
なぜでしょうか?前者の差別が、社会・他者からの一方的な迫害であるのに比べ、ホームレス差別は自己責任に転換されやすいのが原因だと考えられます。つまり、ホームレスになったのは、「努力が足りないから、怠け者だから、性格などに問題があったから」と個人の責任にしてしまう誤認があるからではないでしょうか。今から三十年ほど前、ホームレスになる原因のほとんどが、家庭の貧困、学歴・体力的差別、部落・在日外国人差別でした。現在では、平凡で真面目に働く一般的サラリーマンが、不況の影響を受け、突然解雇され、気がつくとホームレスになっていたというケースが増えています。ホームレスの幅が広がり、明日はわが身というご時世です。
ホームレス問題は自己責任などではなく、明らかに社会の責任です。社会とは、わたしたち一人一人が作り上げていく団体です。社会の問題を自己責任に転嫁される方々の社会的自己責任を問いたいものです。
私たちは、自分の痛みには敏感ですが、他人の痛みには鈍感です。他人の不幸や命を軽視することは、自分の存在を否定することにつながります。いと小さき者の命も自分の命も、全く同じいのちだからです。
私たちは命の大切さを訴え続けます。
愛の大切さを訴え続けます。
共に支え合い、共に生きるために、寄り添いあって生きていきます。

Eさん

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