パトロールを始めて

私たちのパトロールのコースは鴨川河畔を荒神橋・丸太町橋・二条大橋・御池大橋と南下し御池大橋を渡って東側の河畔を北上して荒神橋まで戻ります。私たちがパトロールを始めてから、一年が経ちました。今では月に一度、皆さんに会いに行くのが待ち遠しいくらいです。それでも、第一回目はみんなとても緊張しました。私たちがどこかぎこちないので、迎えてくださるホームレスの方もよそよそしい感じでした。そこへパトロールリーダーの城地さんが「困っていることとか、どこか具合のわるいところはないですか?」と、温かくこえをかけると、お互いの緊張がすこしずつほぐれてきました。そしてようやく私も言葉を交わすことができるようになりました。始めはこのような感じで会話をするのがやっとの私でしたが、一人一人の方としっかりと出会うことができたのは大きな喜びでした。

最初は、困っていることを尋ねても特に返事はなかったのですが、だんだんと「アルミ缶の値段が下がってきた」とか「この前どろぼうに入られて困っている」など話して下さるようになりました。また、お隣さんが留守であれば、その方の近況なども教えてくれます。しかし、このような話を聞いても、結局私たちが力になれることはほとんどないのです。そんな自分の無力さにがっかりし、何とも言えないもやもやとした気持ちでいると、「結局は自分たちでなんとかするしかないんだよ」と城地さんが声をかけてくれました。それでもやはり、どこか納得のいかないきもちは拭えません。

こうして、パトロールを続けていくうちに、誰に対しても「おじさん」とか「おにいさん」と呼んでいたのが、名前やあだ名で呼べるようになりました。そして、パトロール以外のときにも「こんなに寒いけど、あのおじいさん大丈夫かな?」「鴨川が増水しているけど彼のところは大丈夫かな?」とそれぞれの方の顔と、生活しておられる様子を思い浮かべなが心配するようになりました。また、近くに用事があった時などは、「今日は誰かに会えるかな」とちょっと回り道をして河原を通って帰る事もあります。今ではみんな大切な仲間です。

このように、鴨川沿い、特に私たちが回っている荒神橋から御池大橋までの地域の方は昼でも夜でも自分の居場所があり、荷物の置き場があり、お隣さん同士の付き合いもあります。また、ほかのボランティアも時々回ってくるようで、比較的生活が安定しています。一方で、四条通り周辺や御池通りの地下へ降りる階段、京都駅等で過ごしておられる方の生活は本当に大変です。夜遅くなってからそれぞれの場所へ戻って寝て、町の人々が起き出す前にはその場所を退かなくてはなりません。そして、荷物を全部持って、昼間の居場所へ移動しなければなりません。最近では、百貨店が店の前に設置していたベンチを撤去したり、京都駅では嫌がらせをする人がたくさんいると聞いています。また、Nさんはほんの少しの間荷物から離れたすきに、公園で荷物を焼かれてしまいました。彼の最小限の着替えと生活必需品がすべて入った、たったバッ2個分しかない彼の全財産を目の前で焼かれたのです。いつもは気丈なNさんが、それまでに見せたことのない落ち込んだ顔で「わしゃ何もわるいことはしとらんのに・・・」とポツリとおっしゃった姿は今でも私の脳裏に焼きついています。

このごろは、新聞やテレビでもホームレスの問題が取り上げられるようになり、理解のある方が少しは増えたかもしれません。でも、まだまだ差別と偏見があふれています。そしてそれは実際にホームレスの方に対して危害を加えるという形で現れてくることさえあります。みんなそのことに日々怯えながら生活しています。

ある炊き出しの時、配布している衣類の中から素敵な上着を見つけたKさんがそれを羽織って「こんなん着とったらホームレスには見えへんやろ!」と嬉しそうにおっしゃっていました。それを聞いた私は胸がきゅーっと苦しくなりました。私たちの「彼はホームレスだ」と見ている目が、彼らをとても窮屈な、息苦しいところへ押しやっているのです。それは私たちに悪意がなくてもそうなのだろうと思います。

どうしたら共に生きていくことができるのでしょうか。同じ命と命が高められたり低められたりすることなく、寄り添い励ましあって生きていきたいと」願っています。ある朝のこと、荒神橋の下に住む方が通りかかると近所の方が「おはようございます」と挨拶を交わしておられました。なんともすがすがしい、心温まる場面でした。このようなことが当たり前の風景になって欲しいと強く願っています。

大谷若菜

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